昭和41年07月04日 朝の御理解
ふとリ盛りの子供たちにしばらくあわんでおりますと、見知らぬように大きくなっております。信心の、御育てというかもう、少年時代、青年時代という間はまぁその気で信心をさせてもらえばどんどん成長のおかげを頂くものだ。ある一定のところまでは、信心が非常に進むです。それは丁度太りたちの子供がどんどん、背やら、横楯大きくなるようなものです。信心もそこんところはおかげ頂きます。だから大体昔でいうなら兵隊検査の頃までは太るだけ太ってしまう。
その遅太りというのがあって、まぁ兵隊検査が過ぎてから太る人もありますけれどもね。それは例外。信心(?)10年15年させて頂いておりますと大体、一人前ということになりますけれども、家の子供は図体ばっかり大きくしてから、何にも分っとらんとですよ出来んとですよ、と言う様にですそこまでは一応御育てを頂く事は出来るのですけれども、それから先はなかなか大きくならんというか、それから先は心の成長だという事です。信心も同じ事です。
大体図体が大きくなる体が大きくなると。大きくなったからそれで生活が出来るということじゃないです。それから本人の精進。本人の努力がたくまざる、たくましいその、精神力というか、まぁその様々なわざというものを身につけて、生活力がより豊かになっていくようにですね、信心もそれから先が大事だ。ね。椛目の皆さん椛目に限らず、よその、教会で信心の稽古をなさっておられる方もここまでは、皆が分かるんだもんね。ここからが大事にしなければいけん。
ここからがなかなかいうなら見えない。大きくなっても心の問題ですから、もうめざましく目に見えるところまでは皆が成長するけれども成長するけれども、心の問題になってくると中々目には見えない。昨日も私ある人のことを、本当にこの人ばっかりはどうしてこんなに信心が、もう進まないじゃろうかと、私は思うたことがあるんです。椛目で・・信心を十五年の稽古をしよってから、どうしていつまでも私の気持違わんじゃろうかと、いうようなことがあったんですよ。
そしたらあの(?)頂くんですね。(?)目が大きいでしょうが、段々段々大きくなって行くにしたがってから、目が小さくなっていくでしょう。あそこの所を頂くのですよ。もう育つことだけは育っておるというわけなんです。ね。(?)もうこれから先はゴロゴロ太らんでしょうが。(?)。いうならばです、椛目の信心は一通りのことは分かっておるという事。ね。これから先は目に見えんところを育っておる。
私には分からないところが育っていきよるだから、お前がまあそう気にもむことはいらんという意味のことを頂くのです。だから私一口言おうと思うた。あんたどうしていつまで分からんかとこう言いたいと思うた。ところが、もう分かるところまでは分かっておるという事。ですから、お前が言わんでもです、それから先は、本人の心がです、本人の精進によって、少しづつでも育っていくのであるから、そこに例えば子供から青年期というようにどんどん大きくなるしこ大きくなってから。
これからは生活力をいよいよその、豊かなものにする為にです、それから先は本人の精進努力なのだから。お前が、がたがた言うて育てようと思わんでもです、ですからそこんところは分からない。私共には人間には、ですからこれは本人がその気になるよりほかにないということ。皆さんの場合はどう言う事になっておるでしょうか。ね。椛目の信心が一通り分かった。いうなら青年期にはいった。まあ図体だけは大きくなったということになるのでじゃないでしょうか。
だからなら図体だけは大きくなったからというて、豊かな生活が出来るという事はないのですよね。それからなんです。ここまではほっといても段々、信心に通って、けいこに通うてさえいけば分かるところなんだけれども、これから先は自分の心の成長を本気で願うよりほかにないと言う事。ね。ですから、本当のおかげを受けるというか、徳を受けるというか、豊かな日々の生活を出来るようなおかげを頂かせて頂くということは、これからだということ。
たとえば少し熱心にです、一番は椛目に参ってごらんなさい。びっくりするぐらいに信心の成長が目立つでしょうが。もう本当に、10年も15年も稽古をしておるものほうがその、恥ずかしい位にばたばたすすむものですよ信心が。ね。言うことも、ちょっとすることも、いわゆるお道の御信心ぶり、いうならば椛目流になってしまうのですよ。けれどもおかげのほうは、と伴なわないでしょう。心の成長を願わんからです。いよいよ根になるところの成長を願わんからです、その気にならんからです。ね。
ですからそれから先の成長ということは、どういうことかというと、いよいよ昨日の、美登里会の方達が、朝のご祈念の時に頂かれた御理解のようにです、「素直にて雲の上までも登る道があり」とこういう素直とはどう言う様な事かと。「はい」というてその返事がよくなるというだけではなくてです、どのような場合どのような問題でもです、それが有り難い、勿体無いという受け方が出来れるということが素直だという事。と言う様な意味のことを頂いたのだけれども。
これからの心の成長というのはいわゆる本気で神様の御使い回しを頂こうとする姿勢、そういう態度ということが大事になってくるのです。ね。いわゆる神様任せということなんです。ね。まあ皆さんがどうぞ今日もよろしく御使い回しを頂きますように、ね、というてその願われるだけではなくてです、どうぞ御使い回しのよい私にならせてくださいという事なんです。お商売をしておる人が、百姓をしておる人が様々な持ち場立場によって御用に使うて頂いておる人たちがです。
それが本当に御用と分らせて貰うと言う事なんです。そしてそのに十分に御使い回し頂きます様にと言う事なんだ。だからその御使い回しを頂きさえすれば、忙しく御使い回しを頂いておる時には、先ず健康である事は間違いない。商売上なら繁盛しておる時には違いがないです。ですからただ御使い回しを頂きますように、御使い回しを頂きますようにだけではいけん。御使い回しの頂けれる私にならせて下さいと言う事なの。例えばなお商売が例えばなら、まぁ売らなかったり繁盛しないと致しましょうか。
そのときはすぐ自分の心の中に、思うてみなければいけない。神様から御使い回しのしよい私でないんじゃなかろうかと。私の心がぎこちなくなっておるんではなかろうかと。ただ、商売があればよいがと、商いがあればよいがとばっかり思うておってから、そのお商売ならお商売に御使い回しの頂けれる私ではないという事をまず気付かせて頂き、そこをお詫びさせてもらいそこを精進させて頂く。そう言う様な事が心がいよいよ成長していくのではなかろうかとこう思うのです。
いくら御使い回しが頂けますように御使い回しが頂けますようにと言うても神様が使いまわし下さらなかったら何にもならないでしょうもん。自分が空回りしておるだけ。かってマイナスになるようなガタガタしておることばっかりじゃいかんでしょう。神様の御使い回しを頂かねばつまらん。成る程、神様に御使い回しを頂いておる証拠だなあと言う様な日々ならです、どこにもそれを感じれれる信心にならにゃあばいかん。
どうぞ御使い回しの頂けれる私。ですからいよいよ素直にならなければならにという事です。ね、いよいよ美しくならなければいけんということです。いよいよ心が健全にならなければできんということです。「ちょっとここまで来てください」ち、「ちょっと足がたちませんけんで」というなら、使われんじゃない。御給仕させよと思うけれども手が汚れておるならば、もう神様が使いなさるはずがないです。
気持ちがわるか。顔は(?)手がこう汚れておるというなら。ね。先ず心の健全を願わなければなりません。どう言う事でもへこたれない、どう言う事にでも頂きこなせえれる、健全な心を先ず願わなければなりません。たったこの位の事で自分がもう(?)。たったこの位の事でもう自分が腹たちよるもん。心が健全ではない証拠です。だから心が健全ではないものを神様が使おうと思うても使う筈がないですもんね。
そうでしょうが。ちょっとそればここさへ持ってきてくれんのち、抱えきれませんちいうならどうする。御用につこうて下さいというたっちゃ、もう使われんじゃないですか。その位の物も持ちきらんのちいうて言うくらいのことになってくる。ね。それは肩でも叩いてもらおうと思うてもです、ね、手が汚れたくっておるので触るとなら、気色の悪か。神様でも同じ事です。ね。ですから限りなく美しゅうならせて頂かなければいけないのであり、限りなく心の健全を願わせて貰わねばならんのであり、ね。
心は健全であっても、きれいになっておっても、はいという素直な心がなかったらまた、しょうがない。ね。私は心が成長していくということはです、神様に本当に使われなければ心の成長はないと思うです。神様に使われながらです、もういろいろなことが分からせてもらう。神様が十二分に御使い回しを下さることによってです、使われながら、いわゆる仕事が仕事を教えるようにです、ね、私は本当のことが分かって行く、いわゆる真実から真実を追究して行く事が出来るとということになるのです。
自分の意のままにならないという時には、神様が御使い回しを下さっていないのだという風に、分からせてもらう。どこが自をは使うて下さるのに、神様は都合が悪いうあんなさるじゃろうか。力がないもの。健全ではないもの心が。こんなに汚れておるもの。こんな汚いと思いよるもの。これじゃ神様が使いなさるはずがない。親切もなからなければ真心もないもの。これじゃ神様が使いなさるはずがないという風にですね、分からせて頂くという信心こそがです。
いよいよ体は大きくなったという、椛目の信心が分かったと大人になったと、なっただけでいうなら、生活が豊かであるということではない。生活力がついり豊かな生活力が出来るためにはです、まずそこから様々な技とか技術を身につけなければならないように、信心もこれから先は分からん。体だけはもう見知らぬこと大きくなんなさった。と例えば大きくなったんですから、これから先はいよいよ心が成長していかないけん。ね、心が成長をするためには願わなければならん。
どうぞ御使い回しを頂けます様にと、いうその内容がです御使い回しの頂けれる私に、どういうことにも(?)どういうことにでも、御使い回しの頂けれる私にならせて下さい、そういう心の状態にならせてください。力を持って(?)力を下さい。ね、そこんところの私願いでなからなければならない。だから日に何回となしに、そこんところを思うてみなければいけない。その為に私はいよいよ私ともが素直にならせてもらい、おかげをうけなければならないとこう思う。
氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから。私共いわばそれを見やすく頂いてきた。けれども今日頂いてみると、そのところがです氏子が神様任せならということは、ハイハイというてさえおればよいという事ではなくてです、氏子が神様任せになられるだけの内容を、こちらが身につけていかなければならないということ。ね、まず限りなく美しくならせて頂こう。
心の健全を願わせてもらおう。心の力を頂かせてもらおう。ね、どういう意味合いに於いてでも神様が使おうと思えばいつでも使うて頂けれるだけの、体制をこちらがつくっていくことをまずねがわねばならない。そしてどうぞ御使い回しを下さいという素直な心。神様が使いなさらんはずがない。使われていきよるうちに心が成長していきよる。使われていきよるうちに仕事が仕事を教えてくれるようにです、信心もいよいよ奥がへ奥がへ進んで行くことが出来るというふうに私は思うですね。
どうぞ。